今井村

575 ~ 575

享保十五年の「今井村差出帳」によると、村高一一一二石余、枝郷に北原・三沢・貝沢・田中・荒屋があり、家数一五三軒(本百姓一〇三・水呑(みずのみ)百姓五〇)、人数は六五五人、寛政四年(一七九二)には一九二軒(本百姓一五五・水呑百姓三七)、人数九五二人、慶応(けいおう)二年(一八六六)には二二三軒、一〇三〇人となった。本百姓の漸増、水呑百姓の漸減がみられる。

 山布施郷内山は、今井村・小市村・今里村(阿弥陀堂)の草山で、山手籾(もみ)二斗五升を山布施村の七之丞へ出した。いっぽう、岡田村と今井村の入会郷内山は地付き山のため、山年貢は出さなかった。今井村は右両所の芝草刈りだけでは肥料が不足したため、年々村中で油かす代として籾一二〇俵と金一五両ほどずつを支出した。馬持百姓(一〇匹)は、松代領関屋山へ山札一枚につき籾一斗一升余を出し、草刈りをした。主な畑作物は、大麦・小麦と秋作の木綿・大豆・小豆・蕎麦(そば)・大根などで、ほとんどは自家用であった。周辺村々からの入作は九人、出作は四人、田畑の年貢は金納だった。男は耕作のあいまには薪取りやわら細工をし、女は、太木綿布で着物をつくった。村びとは用水を飲み水とし、薪や木材がないところなので、薪と食塩代は村中で三〇両ほどもかかった。村内にある主な石橋・木橋一〇ヵ所は、村普請で維持した。