寛文(かんぶん)元年(一六六一)三代藩主真田幸道当時の原村は村高八四九石余、そのうち藩士一〇人の地方知行高(じかたちぎょうだか)七一三石余は、村高の約八四パーセント占める。
文化六年(一八〇九)原村の人口は五七二人(うち男二八九・女二八三)。原村は慶長十六年(一六一一)に地区を南北に貫く北国(ほっこく)街道が整備されるにつれ、街道沿いに間(あい)の宿(しゅく)が形成され市(いち)も立って栄えた。
原村
寛文(かんぶん)元年(一六六一)三代藩主真田幸道当時の原村は村高八四九石余、そのうち藩士一〇人の地方知行高(じかたちぎょうだか)七一三石余は、村高の約八四パーセント占める。
文化六年(一八〇九)原村の人口は五七二人(うち男二八九・女二八三)。原村は慶長十六年(一六一一)に地区を南北に貫く北国(ほっこく)街道が整備されるにつれ、街道沿いに間(あい)の宿(しゅく)が形成され市(いち)も立って栄えた。