近世前期善光寺平で十二斎市の開かれたところは、善光寺町と松代町で、当時、原町は六斎市であったが、後期には十二斎市が立つようになった。
天保(てんぽう)十四年(一八四三)の「門口表〆(ママ)り御書上帳」には、暖簾(のれん)掛け商家一七軒が書きあげられている。家作は全戸が平屋建てで、建立年は寛文元年から天保年中が約四一パーセントを占めている。屋根は杉皮葺(ぶ)きが八軒、瓦(かわら)が六軒、板が三軒である。入り口は六~八尺のあいたで格子戸か板戸で、奥行はおよそ二間~二間半である。出店者の所持高は一一~五七石余が一二人(七〇パーセント)で、四斗~七石が四人(一寺院をふくむ)、無高は浄蓮寺である。出店者の多くは上層農民であり、最高の五七石余の半之助は苗字帯刀(みょうじたいとう)の身分である。一七年後の文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)には暖簾掛け商人は二二人に増加した。二二軒の営業品目の内訳は、素麺(そうめん)、菓子、干物、きゃら・蝋燭(ろうそく)・馬師、上酒、油・塩、穀・茶・塩、小間物、煙草・材木、提灯(ちょうちん)・唐傘(からかさ)張替、塩・糀(こうじ)・穀、荒物小売り、酒・花物小売り、綿布・繭糸、小間物、油商、塩・材木、酒造稼ぎ、仕立・綿打、紙類、塩・穀、下駄などであった。また、同年在村で、暖簾をかけずに商いをする村びとは五八人を数え、その商種は多様で、活発に商業活動がおこなわれたことがわかる。