松代騒動は、明治三年(一八七〇)十一月二十五日、藩札を太政官(だじょうかん)札の二割五分引きとするなどの藩政にたいする不満が爆発し、上山田村に端を発した。同日午後十一時には力石村の千曲川原に三〇〇〇人が集結した。一揆勢は千曲川の両岸に分かれて松代をめざし、二十六日朝五時過ぎに城下に入った。
今井村では十一月二十五日夜、松代藩治下の百姓が南の方から大勢松明(たいまつ)を振りたて騒ぎたて、家々を打ちたたき、「松代御藩へ願い筋にまかりでる、もし出ないときは火をかける」と動員をかけた。驚いた村びとは仕方なく騒ぎたてた。しかし、村びとは内々村役人からいいふくめられていたとおり、一揆勢を村外へ連れだし、他村まで同道せず立ちもどるようにした。一揆勢は当村の菓子屋・酒屋・大家などへ踏み入り、飯を炊きださせ飲食をして通りすぎた。
翌二十六日の夕刻から二十七日にかけては、川中島平の百姓たちが騒ぎたて、二十七日の朝丹波島宿へ乱入し、その後、沓町(稲里)の酒屋、三ッ又の穀屋の家財を打ちこわし、今里の地主宅へ乱入し、家財を焼きはらった。ほどなく当村へおしかけたものは四、五百人、緋縮緬(ひぢりめん)の旗を押したて先立つ二、三人は陣笠をかぶり、そのほかは棒・鳶口(とびくち)・斧(おの)・まさかりをたずさえ北原へ踏みこんだ。先手は松代往来へ押し通ったが、後手のものが雑言をいいながら踏みこんだため、村内のものはひとまず逃げ去ったところ、人家へ火をかけるようすをしたので、やむをえず一同必死になって打ちかかった。南原の村びとも駆けつけ両方で力を合わせて打ちかかった。その勢いに恐れ、乱暴人どもが逃げ去るのを追いかけ、七人を取り押さえ藁縄(わらなわ)でくくった。さらに先手を追いかけ旗三本のうち、当村で一本、南原村で二本を奪いとった。午後三時ごろまた南方から暴動人多数が押しかけてきたが、南原向において両村で追い散らした。取りおさえた七人のうち三人が逃げ去った。ところが当村地内に死人一人があり、取りおさえたものたちに死体をみせたが、だれも知らないため、急いで中野県役所へ訴えた。出役人が調べたところ、死人の所持品のうち、三品は今里村の地主宅から盗んだ品だった。旗も盗んだ衣類を裂いてこしらえたものとわかった。死人は指図で仮埋葬した。四人は調べたうえ、松代藩へ引き渡された(「御尋に付奉言上候写」長野市立博物館蔵)。