中津地区を流れる灌漑(かんがい)用水路は、慶長期に整備された上中堰・下堰とその枝堰である。堰開発当時は、それぞれの堰守によって管理されていた。元和(げんな)八年(一六二二)当地および周辺は松代藩と上田藩領の飛び領地にわかれていた。寛文(かんぶん)七年(一六六七)には、四ッ屋村の六郎右衛門(中沢家)が三堰の堰守役についた。川中島三堰は犀川のたびたびの増水などの災害により、その復旧のほか、定例の堰普請に多額の費用がかかった。享保(きょうほう)十七年(一七三二)原村・今井村堰筋の人夫の負担は表2のとおりである。江戸期に用水の維持管理にあたった堰守役は明治四年(一八七一)に廃止され、その後、県指導のもと各堰ごと三人の総代を決め用水の管理にあたり、組合の組織や運営もさまざまに変わった。
戦後、昭和二十五年(一九五〇)土地改良法によって堰組合は上中堰・下堰各改良区と改め同二十七年に発足した。現在、各土地改良区が用水堰などの維持管理にあたっている。