江戸期の作間稼ぎは冥加金(みょうがきん)をはらって営業した。当地の作間稼ぎ人の推移をみると、文化十五年(一八一八)八四人、文政八年(一八二五)六九人、慶応四年(一八六八)五五人で、やや漸減傾向を示している。この三時点のあいだの他年度も類似傾向である。文化十五年の今井村「作間渡世品分帳」によると、町組四五人・本郷組二六人・西組一三人が営業している。町組(北国街道沿い)が約五四パーセントを占めている一般農村にくらべ作間稼ぎが多かったのは、間の宿的な町場があったせいとみられる。稼ぎのなかでも小間物見世(店)・穀商・横籠(よこかご)商(青物)・蚕種引・油屋・豆腐商・紺屋・酒造・太物(ふともの)商・菓子屋などが多かった。作間稼ぎは、その後の商業活動に大きく影響した。