中津村の商業活動

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近世後期善光寺平では、菜種の栽培がさかんにおこなわれた。文政十三年(一八三〇)川中島平の油絞人(あぶらしぼりにん)は、七二人を数える。そのうち原村の油絞人はもっとも多い八人である。天保(てんぽう)十二年(一八四一)には一三人に増加した。油絞口数(鑑札)も五・五口と一番多い。これは、近隣の御厨(みくりや)村・川中島村・今井村などが菜種の多産地であったことや、間の宿で交通の便もよく市も立つなど、商業活動の条件に恵まれていたためであろう。

 明治三十四年度の県税商業税賦課のための市町村等級(三十三年現在)は、長野市が一等、松本・稲荷山・上田などが二等、三・四等は須坂・松代・屋代など各地域に小商圏をもつ町が多い。中津村は五等、近くの塩崎・布施・戸倉・八幡・水内なども五等で、これらは局地的商圏をもつ村々であった(『県史』⑦)。

 その後、大正のはじめころ、中津村北原・南原では商店が軒を並べて商業活勤がもっともさかんであった。

 北原には、郵便局、銀行、駐在所、登記所があり、大正座という劇場、花の湯という銭湯、偕楽(かいらく)館という八〇畳の大広間に芸子十数人の割烹(かっぽう)料理店、ほかに飲食店もあって、馬も一〇頭くらい道につながれていた。恵比寿講(えびすこう)や年の市などには、七二会(なにあい)・小田切あたりまで広告配りをし、花火をあげ、一〇〇燭光(しょっこう)の電球を何個も点灯して昼もあざむく明るさで大にぎわいであったという。

 南原は、江戸時代には間の宿や市場町として、川中島平の中心的町として栄え、明治から大正にかけても、多くの商店が軒を連ねていた。上町・中町・下町には市神を祭り、市の日には近郷からの買い物客でにぎわった。とくに大正のはじめころは、呑竜(どんりゅう)さんの縁日には名古屋方面からも参詣の団体客が来て、客が着くたびに花火をあげ、篠ノ井駅にアーチをつくって客を歓迎したという。むかしは南原へ嫁(とつ)ぐことを「お町へ嫁(よめ)に行く」といっていた。このように栄えた町も、鉄道が開通してからしだいにさびれていった。