養蚕業の盛衰とリンゴ栽培

583 ~ 583

明治三十七年(一九〇四)中津村の繭五〇〇石(繭一石は一〇貫匁)は、米・麦につぐ重要産物であった。同四十二年には、県に蚕糸課が設置され養蚕業の振興をはかった。養蚕業最盛期(大正八年・一九一九~昭和四年・一九二九)中津村の養蚕戸数二八二~三三八戸、収繭量(しゅうけんりょう)七五〇〇~二万三六〇〇貫、価格八万七〇〇〇~一六万二〇〇〇円余、反別五一~六四町歩のあいだで一戸当たり平均収入は、三一〇~六四五円であった。

 地区は昭和二年(一九二七)の大霜害にあい、つづく同五年の世界大恐慌によって繭価は大暴落となり、同十年ころまで不況がつづいた。養蚕業はしだいに衰え桑園の整理がすすんだ。同十六年農業生産統制令により作付け統制がなされ一段と衰退した。

 中津村でのリンゴの生産は、大正十三年(一九二四)に島田忠司が一反五畝の桑園へ苗木二〇本を植えて成功したのが最初といわれる。氏は農事試験場の藤原技師の指導をうけ栽培につとめた。栽培種は主に祝(いわい)・紅玉(こうぎょく)・やまと錦などだった。長野・篠ノ井の市場へ出し、四貫匁一箱が二円くらいで売れた。昭和十五年中津村農会に園芸部が設立された。当時の栽培面積は四町歩で、会員は四一人であった。先進地果樹園の視察、剪定(せんてい)講習、防除暦の作成などをおこない、中津地区におけるリンゴ栽培の基礎を築いた。太平洋戦争勃発によって、リンゴづくりは作付禁止によって停滞した。