北国街道

584 ~ 585

『善光寺道名所図会(ずえ)』に載る北原大仏あたり(現警察官駐在所付近)のところをみると、江戸時代後期の北国街道のようすを彷彿(ほうふつ)させる。「北原村に大仏の阿弥陀堂(あみだどう)あり、接待所なり、その向かいに旅籠(はたご)茶屋松屋栄助というは川中島古戦場の旧跡数年来吟味して案内くわしく、即(すなわ)ちその図面を板行(はんこう)して旅人にこれをひさぐ、また裏に池あり大なる鯉を数多(あまた)貯う、そのほかこの辺りに蜜蜂を飼いて蜂蜜を取る家ありとぞ」と付記している。


写真8 北原大仏あたり (『善光寺道名所図会』)

 伊能忠敬(ただたか)測量隊一行による全国測量は、寛政十二年(一八〇〇)蝦夷地(えぞち)測量の第一歩から文化十三年(一八一六)の江戸府内測量の終了まで、一七年の歳月と一〇次にわたる測量によっておこなわれた。

 測量隊は第三次と第八次の二回当地を通った。第三次の享和(きょうわ)二年(一八〇二)十月十一日の日記には「今井村の内北原(松平信濃守知行所・家七十軒、本村共二百軒余)、南原村(松代領・家百軒余)…」と記している(『伊能忠敬測量日記』)。第三次のさいは善光寺宿から北国街道を南進し、第八次のさいは文化十一年四月二十九日、稲荷山宿から善光寺宿へ北進している。

 松尾芭蕉(正保(しょうほう)元年・一六四四~元禄七年・一六九四)は貞享(じょうきょう)五年(一六八八)八月十一日に美濃(みの)(岐阜県)をたち、木曽路から麻績(おみ)をへて姥捨(おばすて)の月をめで「おもかげや姥ひとりなく月の友」を残す。ついで善光寺から北国街道を南進して北原・南原を通り浅間山をみて江戸に帰った。また小林一茶(宝暦十三年・一七六三~文政十年・一八二七)などの文人墨客(ぼっかく)や大名、善光寺参りの旅びとなど有名、無名の多くの人びとが、そのときどき北国街道を往来した。