江戸時代宿場の常備の伝馬・人足不足を補うために指定された村を助郷(すけごう)村という。原村は古くから丹波島宿の定助郷村で、勤め高は六六石であった。文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)十一月一日~十日、皇女和宮(かずのみや)降嫁のおり、原村も加助郷を指定され追分宿へ多くの人馬を差しだした。和宮大通行の翌年、原村はいち早く藩へ「御歎願申上げ候箇条書(借用金返納延期願)」を提出している。そのうち、交通にかかわる項を要約すると、①往来送り物ならびに盲目手引き人足を差しだしている。②旅びとの行き倒れ人、遠国の病気の節の飛脚の差し遣わし、さもなくば、死者の取り置き仕末などの入用が多い。③加州様御参府の節、御小休みあり、前後数日は矢代宿より牟礼(むれ)宿まで七里を付け通し助人馬を差しだしている。④当村より追分宿までは、一六里余ある。そこへの助郷を仰せつけられては、途中前後数日もかかり、道中旅籠(はたご)料・小遣銭など御用人足に日数をかけると多分の散財となる。⑤丹波島・屋代の渡船場が川止めのあとは、諸大名の荷物はおびただしく多くなり、一時に運送することが年に数度もあって、丹波島宿へ多くの人馬を差しだしている。このうえ難渋になると一村立ちゆき難いので、中山道筋助郷を免除され百姓が取りつづくようにしていただきたいと訴えている。これらは、原村にとって助郷負担がいかに大きかったかを示している。