明治天皇は、明治五年から民情視察などのため全国各地を巡幸された。北信地域の御巡幸は、同十一年八月三十日~十一月九日までおこなわれた北陸・東海御巡幸の一環であった。同年九月八日の原村のお小休(こやす)みのようすを『更級郡誌』は、「篠ノ井・御幣川(おんべがわ)・布施高田を経て原村なる旧本陣伊東盛太郎方(現南原公民館)着御あらせらる。表門と中門には紫の幕を掲げ、中門を入らせたまえば中庭には老松、古欅(けやき)枝を交えて茂り、その下に大なる平岩・立岩などあり、御上り口には緋緞子(ひどんす)の幕と白緞子の幕とを重ねて絞り上げ、十五畳なる御次間を通御(つうぎょ)ありて八畳の玉座に入らせたまえり。玉座の中央には高麗縁(こうらいべり)の厚さ畳二枚をならべ高座(こうざ)を設けたり、清人高乾筆の花鳥の軸物を巻きたるままにて床に供えたり、原村御発輦(はつれん)、氷鉋を経て……」と記している。
『信濃御巡幸録』によると、北原では通行に先だって道普請をし、一〇町ほどは跪石(きせき)をしいた。今井村では戸ごとに国旗を立てたが、その旗は唐木綿に丹(たん)(赤土)で赤い丸をつけ、雨が降れば真っ赤になってしまうようなものであった。道筋お目ざわりがあっては恐れおおいとて道祖神や石碑などはすべて、簀(す)で覆った。このことの話者の町田礼助は当時一二歳だった。郵便局(現田島家)あたりで拝観したが、だれも頭を上げて陛下を拝んだものはなかったという。