国道一八号は、昭和六年(一九三一)失業対策や地域開発、漸増する交通への対応といった目的で建設が始まった。同九年には丹波島から埴生(はにゅう)まで、同十六年には上田までつながった。舗装は昭和小学校近くまでできたが戦争のために中断された(同三十一年ころまでに舗装が完了した)。一八号は幅員と直線の二つが特徴で、本県最初の近代的道路の建設であった。人びとは驚きをもって、新国道と通称し、「いざといえば飛行機の発着ができるそうだ」とさえうわさされた。この後、一八号は地区に大きな影響をおよぼしていくことになる。
戦前の交通機関の中心は鉄道であった。大正六年(一九一七)に川中島駅が開業したが、中津村は、篠ノ井駅と川中島駅のちょうど中間であった。北原は川中島駅に近く、南原はむしろ篠ノ井駅に近かった。村民は篠ノ井駅か川中島駅のどちらかに行かなければならなかった。
川中島バスが中津地区内を運行するようになったのは、大正十五年である。川中島バスの運行によって、不便であった村は便利になった。バスは長野から上山田まで、現市道(旧北国街道)を一時間に一回運転され、手をあげればどこでも止まってくれたという。
昭和になると、川中島バス会社は路線網を広げ、国策によって北信自動車・八幡自動車を合併して、川中島平のバス路線を独占した。昭和十九年には新国道線が運行された。