『更級郡誌』の弘化災害表によると、弘化四年(一八四七)の震災・水災は、原村の項に「南原にて一人流死、荒れ地なし、或いは悉皆(しっかい)荒れ地となる」とある。荒れ地のことは不明確である。
松代藩から幕府へ提出した震災報告の第八報によると、「殊に川中島村々へ犀川より引取り候用水堰三筋、外に一ヵ所水門跡方もこれなく押し埋まり候に付、呑(の)み水一切これなく、救い方食べ物、焚き出しの義も場所により二・三十丁遠方より水運び候義に御座候」とある。原村も同じく飲み水には苦労をした。
原村の被害は前記のほか地震によって、蓮香寺の庫裏と鐘堂がつぶれた。その後の水災により庫裏へは一尺(約三〇センチメートル)ほど泥水が入り、鐘堂は流失した。一般の居屋(おりや)へは泥水が五尺ほど入ったが別条はなかった。
世茂井(よもい)神社境内に木造の稲荷社があるが、平成六年(一九九四)に修理したさい、二枚の木札が見つかった。その一枚には、「大地震三月二十四日夜五ッ時、大水四月十三日夜六ッ時くらいより、この宮、岩野村まで流れ行」とあった。他の一枚には、「弘化四未年七月二十五日上町大工酒井春吉之を直す」とあったという(『長野』)。
文久二年(一八六二)の「借用金返納延期願」には、「弘化四年三月二十四日夜、大地震にて居屋潰れ大破・死人怪我人等あり、……その節当村へも大水押し来り、隣村より窪地に御座候故、居屋へ高さ七、八尺ほど水押し入り淀(よど)みおり、家財・農具など残らず押し流し、田畑は厚く砂入りになった。建屋は大破の上、水入りになり容易には住居できない」と記している。さらに、藩からは砂入り・家財・農具などのお手当て金として二六〇石分引きがあった。また、三ヵ年を限って土地開発手当として一二〇石がくだされた。二六〇石分を引き上げられた節も、諸入用・雑費などかさんで難渋村である。一〇ヵ年限りで拝借した金二〇〇両の年季明けになったが、どうしても返金できないと述べ、返納延期願いを書きしるしている。弘化の災害から一五年を経過した文久二年でも、なお震災は大きく尾をひいていた。