中津地区には、つぎのような寺子屋があった。
小林省吾 天保(てんぽう)元年(一八三〇)~大正二年(一九一三)。北原。青木以文(いぶん)に学び、のち岩下桜園(おうえん)に詩文を学んだ。学制発布まで約二〇年ほど読み書きを教えた。のち、戸長・学務委員・村長などを勤めた。
小泉九右衛門 文政十一年(一八二八)~明治二十一年(一八八八)。南原。農業のかたわら学制発布前まで約一五年ほど読み書き珠算などを教えた。
樋口丈右衛門 今井。商業の余暇に読み書きを教えた。お家流の書風をよくし、和歌・俳句をたしなみ、謡曲・挿花・折方技に長じていた。法蔵寺境内には子弟建立の「すてて行く身は極楽の花見かな」の句碑がある。
丸山丹治 文政九年(一八二六)~大正五年(一九一六)。今井。江戸末期から明治時代の医者。医師のかたわら学制発布まで、漢学・医学を教えた。佐久間象山に学び蘭学などを修行した。
高野儀右衛門 文化十四年(一八一七)~明治三十一年(一八九八)。南原。漢学を修め和歌をよくした。佐久間象山と親交があった。松代藩から産物係を命ぜられた。約一五年ほど読み書き珠算を教えた。明治十一年明治天皇御巡幸のおり、歌を献上し金一封と賞状・盃をいただいた。
小泉奥右衛門 文政十二年(一八二九)~明治三十三年(一九〇〇)。南原。農事のかたわら学制発布まで、読み書き珠算を教えた。