農業の変遷

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中津村の農業は戦後もしばらくは二毛作がおこなわれた。昭和三十五年の総面積は三一〇町歩、経営耕地面積は約二四〇町歩(耕地率約七七パーセント)、水田面積一六五町歩(水田率約六九パーセント)。畑地面積は約七五町歩(畑地率約三一パーセント)で、うち普通畑約九町歩・果樹園約四一町歩・桑園二四町歩の割合である。当時更級郡内で水田率がもっとも高かったのは稲里村の七〇・三パーセントで、これについで中津村は高率であった。しかし、稲作は昭和三十年代から減少を始め、同四十年に水田面積は一三七ヘクタール、同五十年には九八ヘクタール、平成七年には四八ヘクタールに減少している。同七年の総世帯数は二二〇一戸、総農家数は一五四戸(七パーセント)であり、そのうち専業農家は三〇戸、兼業農家は一二四戸(第一種三五・第二種八九)である(『長野市統計書』)。とくに第二種兼業(農業以外に生活の基盤をおいている農家)が多いのは以前からのことで、これは一戸あたりの経営耕地面積が少ないうえ、旧長野市近郊であること、さらに経済成長による都市化、社会の動向などの諸条件によっている。戦前純農村であった中津村は、現在約九三パーセントの人びとが農業以外の生業にたずさわっている。かつて二毛作がさかんだった中津村で、今では麦作をみることはできない。