県は昭和二十七年(一九五二)、市町村規模適正化の方策として御厨村、中津村、川中島村の三ヵ村合併試案を策定した。この試案について三ヵ村では合併委員会などで検討し、御厨村・川中島村は県の試案について意見の一致をみた。中津村は、篠ノ井町、信里村、共和村、中津村、御厨村に川中島村を加えた一町五ヵ村の合併を指向した。御厨村は一町五ヵ村案に同調したが、川中島村では三ヵ村合併を強調して妥協しなかった。こうした事態のなかで、中津村、御厨村のなかには村を割ってでも篠ノ井町へ合併という動きも出てきた。そこで両村は村が割れることを憂い、また、組合立小学校という関係もあって二ヵ村合併にふみきった。同三十年四月、二ヵ村は合併し、新村名は小学校名「昭和」をとって新村名とし、旧御厨村は大字御厨となった。
昭和村が発足した四月に、川中島村では村長選挙がおこなわれた。昭和村との早期合併を公約した村長が当選し、同年十一月、川中島村は昭和村に合併の申し入れをした。昭和村では時期尚早という意見もあったが、この申し入れを受けいれ、昭和三十一年九月、二ヵ村は合併し、町制を施行して組合立中学校名「川中島」を新町名とした。