御厨(みくりや)村が発足した明治八年(一八七五)、この地区の戸口は戸数三二八戸・人口一五六四人であった。その後、昭和十年(一九三五)代まではほとんど戸口に変動はなく、戦後を迎えた(昭和十五年三一〇戸・一六七九人、『市統計書』)。太平洋戦争末期ころから都会からの疎開者や、戦後の海外引き揚げ者などで一時的に人口は増加し、昭和二十二年には戸数三八六戸・人口二一五七人とピークに達した。しかし、その後、都市の復興や経済発展にともない、人口が流出し、長野市に合併する四十一年ころまで毎年のように人口は微減しつづけた(昭和四十一年十一月一日世帯数四三六・人口二〇〇四人、『市統計書』)。御厨地区の戸口が大きく変動するのは、昭和四十六年、県による御厨団地の造成である。この結果、昭和五十年(一九七五)には九四八世帯・三五六二人と戸口は激増した。御厨団地が造成される前年の四十五年にくらべると、世帯数では九二パーセント、人口では六パーセントと激増している。その後も順調に戸口は増加し、平成十年十月には、一三九八世帯・四四一五人となり、田園地帯の面影は、農業振興地区を除いて失われつつある。