御厨(みくりや)地区内部では、今のところこれといった遺跡、遺構は検出されていないが、外縁部には南宮(なんぐう)遺跡・田中沖Ⅱ遺跡、隣接区では田牧居帰(いがえり)遺跡・田中沖Ⅰ遺跡が公共事業にともなう緊急発掘調査などによって検出されている。これらの遺跡はいずれも犀川の乱流時代に形成された自然堤防(微高地)上に分布し、そのほぼ延長線の上流に御厨地区がある。こうした地理的条件から推して、これらの遺跡は中世に成立した富部御厨となんらかのかかわりをもった遺跡と思われる(『調査報告書』)。
『田中沖遺跡Ⅱ』の調査報告書によれば、一〇世紀代は田中沖遺跡は池郷に属し、頤気(いき)神社を氏神としていた地域と考えられ、のちに戸部を中心とした富部御厨に編入されたのであろう。検出された住居跡のなかには通常の生活遺構にみられる煮沸具が少なく、食器類が多い住居跡が三ヵ所検出された。この住居跡は、御厨という荘園化したなかで、貴族政治から武家政治への解体期に向け、在地豪族とそれを取り巻く集団の結束の場とみるのは早計であろうか。とくに八稜鏡・馬具の出土は豪族の存在を裏づけるものである、と推論している(第一八章および第一九章第二節一に詳述)。