斗女郷

613 ~ 614

律令制度の確立によって川中島地方も中央集権体制下に組みこまれていった。七世紀中ごろには『和名抄(わみょうしょう)』記載の頤気(いき)郷(第一八章第二節に詳述)・氷鉋(ひがの)郷(第一九章第二節に詳述)・斗女(とめ)郷(同前)の三郷が川中島地方にみられた。御厨地区の中央部は斗女郷の中心地域として、北部は氷鉋郷、東部は剛気郷との混在地域であったと思われる。『信濃地名考』は「斗女郷、いま戸部、富部に作る。これ大戸の姓に出たるべし」とし、斗女郷は富部、戸部の地名として継承されているとしている。この郷域について『大日本地名辞書』は「栄村(篠ノ井会・同横田)・川柳村(篠ノ井川柳)・布施村(篠ノ井布施高田・同布施五明)・御厠(みくりや)村・中沢村(篠ノ井東福寺)・東福寺(同)等なるべし。千曲川の西北辺とす。古書に富部に作るもの多し」と述べ、御厠を中心とした地域であるとしている。

 稲里町下氷鉋の氷鉋斗売神社は『延喜式』記載の神社である。近世まで一七ヵ村の総社で、そのうち七ヵ村を氷鉋郷といい、一〇ヵ村を斗女郷といっていた伝承がある。こうした伝承から、氷鉋郷の郷域の拡大、郷戸の増加によって「氷鉋斗売」という神格が分かれ、氷鉋郷・斗女郷となったという。また、平安時代末ころ創立された伊勢神宮の荘園富部御厨は、この神格「斗売」の名残という説もある(『更埴地方誌』)。