富部御厨

614 ~ 615

地名の由来でも述べているが、「御厨」は伊勢神宮の神領をいう。律令体制の経済的基盤であった班田収授法が行きづまり、有力氏族、寺院の荘園(私領)が増加していく平安末ころから中世のはじめころにかけて富部御厠が成立したと思われる。『吾妻鏡』文治(ぶんじ)二年(一一八六)三月の「乃貢未済庄々注文」のなかに「富部御厨」と記されている。また、『神鳳抄(じんぽうしょう)』に「二所(大和国・信濃国)太神宮御領諸国神戸(かんべ)・御厨・御薗(みその)・神田・名田等」のなかに外宮(げくう)領として「富部御厨百五十町・八所」とある。この「八所」について実数とみて、戸部・原・今井・小森・東福寺・中沢・杵淵・広田の地をあてる説がある(『更埴地方誌』)。しかし、「八」は実数ではなく、複合語として用いられ、古代では数の多いことを示す語のうち、もっとも多用されている(『日本国語大辞典』)。したがって多くの場所にまたがって、一五〇町歩が富部御厨であったと解したい。『立川寺年代記』に「第八十代高倉院(中略)この年(嘉応(かおう)元年、一一六九)六月十六日、信州布施戸部に巡り七寸の氷降る」とある。このころ富部御厨の一部は、神宮領を離れ、布施荘に転化していたのであろうか。『春秋之宮造宮之次第』に「一、舞台富部御厨」とある。また、天正(てんしょう)七年(一五七九)正月二十七日の『春宮御柱□□』に「一、同所の舞台、都邊(とべ)御厨屋(富部御厨)の役なり。彼の郷中の手形、高木刑部左衛門尉(ぎょうぶざえもんのじょう)不参について載せず候」「一、玉籬(たまがき)三間、都邊御厨屋、執手、高木刑部左衛門尉・諏訪勘解由(かげゆ)左衛門尉」とみえる。

 富部御厨の神明社は、篠ノ井西寺尾の富部御厨岡神明神社と推定されている(第六章第三節一参照)。