三 石造文化財

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 御厨(みくりや)地区の石造文化財は、村の規模の大きさや富部御厨という歴史的な背景などの割りには意外と少なく、五〇基ほどで、種類も少ない。また、各地に多くみられる民間信仰の代表的な道祖神碑は四基、庚申塔(こうしんとう)にいたっては一基のみである。しかもその分布は、寺院・神社の境内に集中しており、路傍のものは、棗(なつめ)町と北戸部の道祖神二基のみである。石造物が建立された年月は江戸中期以降で、時代の判明しているもっとも古いものでも、常泉寺の墓地内にある宝永四年(一七〇七)の六地蔵である。このうち一体の背面に「光雪童子 宝永四年」と銘があり、寺の過去帳にも記載されている。常泉寺には、富部家俊の墓と伝えられる古い五輪塔や三十三ヵ所巡拝塔二基をはじめ、二〇基ほどの石造文化財がある。地区の四割近くがこの寺域に集中している。宝暦十年(一七六〇)の角柱型巡礼塔には「奉納西国四国秩父坂東供養塔」「願主戸部村小林庄七」と記銘されている。また、文化七年(一八一〇)の自然石の巡礼塔には、表面に「奉納四国西国秩父坂東信濃札所巡回供養塔」、裏面には「願主当所弥兵衛」と陰刻されている。

 法蔵寺には徳本(とくほん)念仏塔、宮本虎杖(こじょう)句碑など一〇基余の石造文化財がある。参道南にある徳本念仏塔は、文化十三年五月二十一日、徳本が塩崎村天用寺を出発し、松代町願行寺へおもむく途中、法蔵寺檀家の懇願で寺に立ち寄って開眼(かいげん)供養した念仏塔である。この開眼供養について『応請攝化(せっけ)日鑑』に「戸部村法蔵寺檀中御迎え、九ッ時(正午)過ぎ御着き。直ちに法蔵寺門前の御名号石御開眼供養終りて御発(た)ち。八ッ半時(午後三時ごろ)願行寺御着き。法蔵寺より御名号石御開眼のための御礼、御菓子・小杉紙二束御供養」とある。

 境内にある自然石の句碑には「念なくも花にくもれる眼(まなこ)かな」の虎杖(虎杖庵三世)の句が陰刻されている。戸部村を中心とした広田村・原村など近郷の虎杖門弟等によって建てられた。宮本虎杖は江戸時代の俳人で、本名は宮本道孟、字を橘貞人・虎杖庵・舟山・亀房と号した。寛政五年(一七九三)埴科郡下戸倉村(戸倉町)に生まれた。天保(てんぽう)十三年(一八四二)二月三日「立ち帰る春やころもの鼠色(ねずみいろ)」という辞世の句を残して没した。川中島地方にも虎杖の薫陶(くんとう)をうけた門弟が多い。


写真3 法蔵寺境内の虎杖句碑