一 神社

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 伊勢社 戸部(荒町) ①祭神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ) ②由緒 白河天皇の時代(承保元年、一〇七四~応徳(おうとく)四年、一〇八七)の草創で、富部御厨の神明社と伝えている。しかし、富部御厨の神明社は、篠ノ井西寺尾の富部御厨岡神明神社が定説になっているので、戸部伊勢社は第二節第三項で述べてもいるが、伊勢御師(おし)によって勧請(かんじょう)された「旅屋(たや)神明社」と推定される。草創期については桓武天皇の時代とも伝えているが、この伝承は御厨の成立期からみて信じがたい。

 永禄(えいろく)四年(一五六一)の川中島合戦で社殿は兵火にあい、社領は織田信長によって没収されたために社運は衰えた。さらに慶長(けいちょう)年間(一五九六~一六一四)火災で社殿はふたたび焼失し、衰微した。元和(げんな)三年(一六一七)伊勢御師の久志本家が伊勢神宮造営の余材で、神殿を伊勢神宮に模して再建した。現在の社地は、大正五年(一九一六)信徒の助力を得て買収したり寄進をうけたりし、社殿は順次造営されて昭和四年(一九二九)に竣工した。戸部伊勢社は伊勢神宮と同じく、二〇年に一回の御遷宮がおこなわれている。境内社に秋葉(あきば)社・志名斗弁(しなとべ)社・菅原社・三峰(みつみね)社がある。


写真4 伊勢社

 伊勢御師と御旅屋 御師は祈祷(きとう)師の意味で、平安時代貴族が帰依する祈祷者をさし「師の坊」などともいった。のちには、神社のなかでもっぱら祈祷にしたがう身分の低い神官をいうようになった。御師は特定の信者と師檀関係を結び、神前に信徒の無事息災を祈祷するとともに、信者にたいして巻数(かんじゅ)(祈祷札)・守札・大麻(たいま)(神符)・暦・香水などを配布して、米銭の寄進を得た。また御師は信檀が伊勢参りをしたときは、案内をしたり、自宅を宿泊施設として提供した。江戸時代になると伊勢御師の活動は最盛となり、かれらの活動によって伊勢信仰が全国的に広まった。明治四年(一八七一)の御師職廃止まで活動した。

 御師の久志本家は、水内・高井・更級・埴科・小県の四郡を祓下(はらえした)とした。久志本神主やその家来の古川善兵衛が毎年伊勢から出張してきて、久志本左衛門屋敷(御旅屋(おたや))を本拠として近隣の家々に伊勢神宮の神符を配ったという。戸部の伊勢社に久志本神主が到着する日は、沿道一キロメートルにわたって清浄な河砂を敷きつめ、掃き清めて出迎えたという。今日でもおこなわれている一月六日の戸部の「おたや」祭りはその名残である(『古戦場の村々の記録』)。この日に社務所で借りる「お種銭」は、翌年倍にして返す。お種銭とは借りる金銭のことをいう。この慣行は、奈良時代おこなわれた「出挙(すいこ)」の制度が引き継がれてきたものである。

 更級斗女神社 戸部(柳之内) ①祭神 健御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと) ②由緒 斗女郷の氏神としてこの地に勧請して以来、旧戸部村の氏神として奉斎してきたという。今は戸部区を氏子としている。神社のある「柳之内」の地名について「健御名方命は、妃の八坂斗女命をともなってこの地に来て、行宮(あんぐう)を建て、八人の乙女にかしずかれて滞在した。それ以来、この土地を『八名妓(やなぎ)の内』とよぶようになった」と伝えている。

 かつてこの神社は、諏訪大明神と称していたが、文化十二年(一八一五)現社号に改称した。このときの社名改称について同神社の神主と真島村清水神社神主・西寺尾村頤気神社神主は連署して同年八月、上田藩寺社奉行所をとおし、神祇管領(じんぎかんれい)吉田家に、「上田御領戸部村奉仕の諏訪大明神へ多年願望につき、今般更級斗女神社と相願はれたき由、私ども組合においても、右社号なんの故障御座なく候。もし郡中において故障の儀御座候はば、何方までもまかりいで、きっと埒(らち)明け候。すべて産子(うぶこ)中、御難かけ申すまじく候」と、神社名の改称を願いでている(青木家文書)。

 更級斗女神社が現社名に改称した時代、寛政・文化・文政期(一七八九~一八二九)は、国学が勃興し、その復古主義思想により「諏訪大明神社」から現社名への改称運動がおこなわれた。同じように願いでて改称したものに、戸部村近隣の村では、頤気神社(小島田・西寺尾、寛政元年)・氷鉋斗売神社(下氷鉋、寛政六年)・世茂井神社(原、寛政九年)・清水神社(真島、寛政九年)・川中島斗売神社(上氷鉋、文政元年)などがある。境内社に琴平(ことひら)社・菅原社・多賀社・疱瘡(ほうそう)社・八坂社がある。

 松尾神社 上布施(屋敷添) ①祭神 大山津見命(おおやまつみのみこと)・市杵島媛命(いちきしまひめのみこと) ②由緒 布施氏が代々崇敬した社で、社領を寄進したという。近世には寛文六年(一六六六)の検地帳に除地高六石とある。その後、衰微して社殿も荒廃したが、延享(えんきょう)四年(一七四七)再興した。現社号は明治十一年(一八七八)官許された。社務所は上布施公民館と併用している。


写真5 更級斗女神社