讃楽寺 浄土真宗本願寺派 戸部(平井組) ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 今井山 ③由緒 寺伝によると、建暦(けんりゃく)二年(一二一二)木曾義仲の臣、今井兼平の次男兼之が発心して宗祖見真大師(親鸞(しんらん))の法弟となり、兼寿坊と号した。嘉禄(かろく)二年(一二二六)九月、善光寺参詣を兼ねながら、亡父兼平が領有していた今井郷を訪れ、更級斗女神社の神宮寺であった戸部平井の真言宗万行寺跡に小堂を結び、今井庵(あん)と号した。その後、戸部郷の里人の助力を得て堂宇も整い、延慶(えんきょう)二年(一三〇九)旧寺名を継承して万行寺と改めた。川中島に出陣した武田信玄は当寺に帰依し、永禄六年(一五六三)七月、兜(かぶと)仏である「矢除け阿弥陀如来像」を奉納し、旧寺領のうち三六貫余をあたえ、「分国静謐(せいひつ)たらば、相残る寺領旧規のごとく寄進奉る」という朱印状をあたえたという(讃楽寺文書)。これらは寺宝として所蔵されている。延宝元年(一六七三)三月、堂宇は焼失した。貞享(じょうきょう)二年(一六八五)円祐は檀信徒の助力を得て堂舎を再建し、寺号を讃楽寺と改め、中興開山となった。
常行寺 浄土宗 上布施(寺浦) ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 光明山 ③由緒 寺伝によると、鎌倉光明寺の法灯を継いだ北条善室は、貞和(じょうわ)五年(正平(しょうへい)四年、一三四九)川中島を巡釈し、文和(ぶんな)三年(正平九年、一三五四)四月、この地に庵を結び、常行寺と号し、鎌倉光明寺との縁で山号を光明山とした。善室はその後、貞治(じょうじ)三年(正平十九年、一三六四)原村西畑沖に蓮香寺を創建した。なお、鎌倉光明寺の寺号を山号とする寺院は、ほかにも後述の法蔵寺や、極楽寺(更埴市稲荷山町)など、旧北国街道沿いに全部で七ヵ寺ある。寺の周辺に「五輪沖」「寺沢」「堂野」「花畑」と寺にかかわる地名が多い。こうした地名から推して、常行寺は大寺で、隆盛していたものと思われる。境内地の北「五輪沖」からは白骨や五輪塔が出たと伝えられている。その後、寺運は衰微して堂舎は荒廃したが、慶長元年(一五九六)慧等(えとう)が中興した。
常泉寺 曹洞宗 戸部(棗(なつめ)町) ①本尊 釈迦(しゃか)如来 ②山号 亀伝山 ③由緒 松代町明徳寺末寺。寺伝によると、養和元年(一一八一)富部家俊の守り本尊であった十一面観音像を安置し、北向厄除観音堂として建立したのが寺の始まりという。元亀(げんき)元年(一五七〇)村上義清の開基により、北町裏に建立され、明徳寺五世巌雄を招聘(しょうへい)して開山とした。元亀の年号をとり、山号を「亀伝山」とした。また寺号は、絶えることのない泉に臨んでいることと、泉を連想させる清浄な犀川の支流、戸部瀬(下堰)に臨んでいることなどによるという。創建の地は、現今の寺域の西南という。その後、寛文十二年(一六七二)実悟は、檀信徒の助力を得て、現在地に堂舎を新たに建立して移転した。現鐘楼・座禅堂は平成六年(一九九四)に造営された。
控え柱のある山門は、珍しい建築様式で武将の館門に類似している。また、寺域の東側に富部家俊の墓と伝える古い五輪塔がある。五輪塔のある小丘地について『市誌』②は「常泉寺は東側に欅(けやき)の大木と土塁跡を残しており、中世の居館跡である」と述べている。寺は富部氏の居館跡に建立されたものであろう。群馬県勢多郡北橘(きたたちばな)村には富部氏の子孫という「戸部」を姓にする人たちがいる。この人たちは寺を訪れて、先祖富部家俊の供養をしている。また、欅の巨木は、この地域のシンボル的存在として親しまれている。
法蔵寺 戸部(荒町) ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 光明山 ③由緒 寺伝によると、仁治(にんじ)元年(一二四〇)浄土宗第三祖、良忠は善光寺参詣のさい、この地に錫(しゃく)を留めて、戸部花立の地に一宇を創建し、開山となったその後、天文(てんぶん)二十二年(一五五三)から永禄七年(一五六四)までの五回におよぶ甲越の合戦で兵火にあい、伽藍(がらん)はことごとく焼失した。文禄(ぶんろく)三年(一五九四)江戸増上寺一〇世存貞(ぞんてい)の直弟、林長が檀信徒の助力を得て現在地に再建し、中興開山となった。
本堂は弘化四年(一八四七)の善光寺地震で半壊した(戸部・林武雄家文書)。現本堂は昭和三十二年(一九五七)大修復して落慶したものである。本堂向拝(ごはい)の蟇股(かえるまた)には一六弁の菊花紋がある。安永八年(一七七九)建立の鐘楼門の門前には、徳本名号碑、平成十年再建の観音堂前には、虎杖(こじょう)の句碑「花曇塚」がある(第二節第四項参照)。観音堂には恵心(えしん)作と伝えられる千手観音像と西国三三番観音像が安置されている。庫裏は平成十年に新築された。
文化十三年(一八一六)徳本は浄土教布教のために信濃入りした。そこで法蔵寺は上田藩奉行所に「徳本行者が当地を通行するについて、檀家のものたちが上人の化益をうけたいと請い願っている。そこで四月十七日より、十九日まで上人を招待したい」と願いでている。この願いは聞き届けられ、徳本は四月十七日、下氷鉋善導寺から法蔵寺に到着して、つぎの善光寺町寛慶寺に出発するまで法蔵寺に逗留して布教活動をした(「御用日記」青木家文書)。
法蔵寺は戸部の「おたや」に隣接しているので、川中島地方の村人は「戸部の御旅屋の西がわの法蔵寺」といえばすぐ場所がわかった。そのうえ、境内も広いので、近郷の村人たちの集合場所としてなにかと利用された。たとえば、戸部伊勢社の遷宮祭の催しものに参加する近郷の若者たちは、法蔵寺で勢ぞろいした(小島田乙区文書)。また、明治三年(一八七〇)の松代騒動のときに、小島田・広田・藤牧・中下氷鉋・上下布施・原の各村は自警団を出し、戸部法蔵寺に勢ぞろいして一揆にそなえた(上布施文書)。