御厨(みくりや)地区は、慶長三年(一五九八)の上杉景勝会津(福島県会津若松市)国替え後、豊臣秀吉蔵入地か田丸直昌(ただまさ)領となり、慶長五年森忠政領となった。同七年忠政は総検地を実施した。この地区の村高は、戸部村一二六九石余、上布施村二六一石余で、この石高がその後の村高の基準となった。上布施村の枝郷であった下布施組は、天保(てんぽう)三年(一八三二)独立して下布施村になるが、村高は上布施村にふくめられた。同八年二月、忠政は美作(みまさか)津山(岡山県津山市)に移封となり、同年松平忠輝領、元和二年(一六一六)松平忠昌領、同五年酒井忠勝領となった。同八年、上田から松代に真田信之が入封すると、上布施村は松代藩領となって、そのまま明治維新を迎えた。いっぽう戸部村は小諸から上田へ入封した仙石忠政の上田藩領となった。宝永三年(一七〇六)仙石氏と入れかわりで松平忠周(ただちか)が但馬出石(たじまいずし)(兵庫県出石郡出石町)から上田に入封した。忠周が京都所司代となった享保(きょうほう)二年(一七一七)から一三年間、戸部村をふくめた上田藩領の川中島一万石の村々は幕府領となったが、同十五年松平氏上田藩領に復した。
松代藩領の上布施村には、藩主蔵入地と地頭知行地があった。寛文元年(一六六一)「家中分限帳」によると、村高二四一石余(『正保郷帳』)のうち、八六パーセントにあたる二〇八石余が七人の地頭の給所となっている。