差出帳からみた村の姿

625 ~ 626

享保十五年(一七三〇)幕府領から上田領にもどった川中島一万石の村々にたいし、村の実態を掌握するため、上田藩は「村差出帳」を提出させた。このときの戸部村差出帳(戸部・林武雄家蔵)によると、村高は一二六九石余、切起し(新田)五石余となっている。このうち、戸部堰などの堰敷分として高九石余、郷蔵屋敷分として高二石が年貢免除地となっていた。本村戸部には、耕地を所持する本百姓一二九軒、小作百姓三八軒、枝郷北戸部組には二一軒の農家があった。このほかに酒屋二軒・紺屋四軒があり、鍛冶屋・大工・針医・馬医などの職業もみられる。村の人口は八七四人で、男性のほうが女性より一五人多く、一六九人は他所へ縁付いたり、奉公にいっていた。村は名主給として米一石五斗(約二二五キログラム)、組頭給四人分として一一石二斗(一人約四二〇キログラム)、走り使いをつとめる定夫(じょうふ)二人分として籾三〇俵(一人米約五七〇キログラム)を負担している。名主の給与は責任や仕事の煩雑さにくらべて一番少なく、まさに名誉職で、経済力のない家では現実的には名主役を勤めることは容易でなかった。

 村高のうち一四五石余には今井・中氷鉋・上庭など隣接の村人一六人が入作している。他村への出作りは高三三石余で、百姓一人だけであった。田植えは半夏(はんげ)二日前から植えはじめ、四、五日で植え終えた。麦蒔きは九月土用半ばころから蒔きはじめ、三〇日ほどで蒔き終えた。村全体では、山方村から毎年堆肥の原料として刈干草代一四両ほど、薪代二五両ほど買っている。また、籾一五〇俵余を薪・刈千代として松代領の山方村に出している。作馬は八頭と少なく、田植え時期には山手の村から四〇頭あまり借馬をしている。馬の借賃は一頭について籾一俵三斗余であった。そのほか、村の農家が購入する肥料の油粕代は籾八、九〇俵、鎌・鍬など農具の先掛け賃を籾八、九〇俵ほど鍛冶屋に支払っている。

 戸部村は松代領有旅通(うたびどお)りや吉窪通(よしくぼどお)りの山方村人が城下町松代へ行く主要な街道筋で、里方と山方の物資の交易地で、九斎市がたっていた。この市が貞享四年(一六八七)の戸部大火でつぶれたことも『差出帳』にある(第五節三で詳述)。