よく知られている百姓一揆(いっき)には、宝暦十二年(一七六二)の上田領の宝暦騒動や松代領の天明四年(一七八四)の山中(さんちゅう)騒動、明治三年(一八七〇)の松代騒動などがある。これらの騒動のときでも、川中島地方の農民は、農業に恵まれた立地条件、あるいは上田領の「飛び領」ということもあって、一揆への参加には消極的であった。ときには藩がわについて、一揆の参加者を弾圧する場面もあった。川中島地方は、山方や川北の一揆の群衆が松代城下町に向かう通路にあたっていた。そのため一揆の参加者たちによる強要、打ちこわし、焼き打ちなどの被害をこうむったからである。