御厨地区における明治三年の松代騒動について、『藩幣騒擾(はんぺいそうじょう)調書』に「二十七日、川中島で乱暴を働いた村々は、山中筋・犀川東・犀川北のものどもが入り交じり、いずれも盗賊同様の行動をとったものどもが多くいた。そこで広田・藤牧・上中下氷鉋・今井・今里・戸部・南原などと申し談じ、騒立(さわだち)人どもを殴り倒し、散り散りに追い払ったという。そのとき、藤巻・上布施・戸部村のあいだで追い払われ、殴り倒された人数は、三六人ほどもいた。また、死人も出たようすである」とある。
上布施村役人は二十七日、「前々打ち合わせしておいたとおり、近隣の村々の自警団は、戸部法蔵寺前に勢ぞろいして、一揆にそなえていた。戸部天神沖で一人死亡、手負い三人を拘留した」と、その処置について藩に伺いを立てている。戸部天神沖で重傷を負った弟を引き取りにきた農民は、「騒動の節、家を出たまま弟は帰宅しなかった。心配して方々捜し訪ねるうち、戸部村地内で怪我をして煩(わずら)っているものがいると同村から知らせがあった。出向いたところ、弟は眉間(みけん)に二ヵ所の傷をうけて苦しんでいた。家に引きとって治療を加えたが、養生かなわず死亡してしまった。怪我をして戸部村地内で煩っていたことは、騒民の群れに加わって騒ぎあるき、自分から死を招いたものに違いない」と、藩に届けている。また、戸部村の天神沖あたりで追い払われ、中氷鉋村の方へ逃げていったものたちは、中氷鉋村の自警団に殴り倒されて二十七、八人ほどが捕縛され、一人が殺された。
この騒動で御厨地区では、北戸部と下布施村でそれぞれ民家一軒が打ちこわし、焼き打ちにあった。また、騒動に参加した下布施村の若者は、盗みをした廉(かど)により准流(じゅんる)一〇年の刑に処せられた(『藩幣騒擾調書』)。