歴史的呼称を伝える戸部堰

628 ~ 628

戸部堰(せぎ)の呼称は、下堰本堰が御厨(みくりや)地区内を貫流する堰につけられた公称である。下堰は荒沢堰を分岐したのち、三ッ俣(みつまた)橋の橋もと、北戸部で広田沢堰を分岐して戸部堰と名称をかえる。戸部堰は戸部区で宮堰・大御堂堰をさらに分岐しながら南流して、東福寺地籍に流れる。この地籍で、いったん空田(そらだ)堰と新田堰に分流するが、ふたたび合流して千曲川にそそいでいる。現今の「戸部堰」の名称は、近世初頭に犀口三堰(岡田堰・今井堰・戸部堰)が開発整備された当時の堰名をそのまま継承している伝統ある名称である。松代藩は犀口三堰の支配権を確立すると、寛文(かんぶん)七年(一六六七)四ッ屋村の六郎右衛門を堰守(せぎもり)役に任命した。このとき、取り入れ口上流から上堰(岡田堰)・中堰(今井堰)・下堰(戸部堰)と呼称をかえた。