戸部堰の開発とその整備

628 ~ 629

川中島地方には犀川流域地帯にかぎらず、中央部にあたる稲里町や川中島町原・御厨地区においても「沢」「河原」「石原」「砂原」「窪」など犀川乱流時代をしのぼせる地名が多い。御厨地区では「荻田沢」「中沢」「寺沢」「荒沢」「原沢」「清水沢」など末尾が「沢」の地籍名が目だつ。これらの地名は、中世の末ころまで犀口(篠ノ井小松原)から南東に流れていた犀川の一支流、中瀬川から分流した小瀬川からついた地名である。犀川乱流時代、里人は洪水で罹災はしたが、恵まれたこれらの自然流水によって、御厨地区をはじめ川中島地方の里人たちは稲作を営んできた。この犀川の自然流水路を開発、整備してこんにちの上中堰・下堰の基礎を築いたのは、松平忠輝の家臣、松代城代花井吉成・義雄父子と伝えている。

 花井父子は慶長十六年「まことに百姓において水利を必要とするならば、村方から代表を立てて、出願せよ。一堰につき金千両ずつ一時藩において立てかえておき、永年賦として返還すればよい」と領民に布告した。戸部堰筋では戸部村の又次郎が代表となって出願し、関係村人を動員して慶長十六年着工し、翌十七年完成させたと『下堰沿革史』は記している。