犀口三堰は松代藩の道橋奉行が主管した。用水関係の直接の取り締まりは、元締役の小奉行がつかさどり、その下に堰守役がいた。堰守役は現地責任者で、地元四ッ屋村の中沢家が世襲した。
村ごとに堰守を補佐する出役人がいた。堰や橋の普請、水車の新増設など堰に関する文書は、すべて堰守を経由して道橋奉行に提出された。農民は鍵役(かぎやく)(門役(かどやく))として堰普請などの夫役を課せられていた。
農業生産の動向が藩財政を左右することもあって、歴代領主は水利普請などには金銭や材料などを助成した。しかし、普請の多くは関係受益農民による負担であった。春掘り普請、秋水落ち普請、洪水などの臨時普請、その他の普請は石高割による村請制によっておこなった。これは幹線堰のみで、枝堰関係は別に負担した。下堰では高一〇〇石について年間延べ六三人(春・秋普請三人、年間二一日)出しが、恒常の人足数であった。
享保(きょうほう)十四年(一七二九)戸部堰普請は、例年のとおり上布施村など松代領二五ヵ村と戸部村など幕府領六ヵ村(翌年から上田領にもどる)の村々でおこなった。普請には松代藩の奉行一人と小奉行衆が監督に出張してきた。
普請人足は高一〇〇石に三人ずつ出した。普請日数は二月彼岸中日からはじめ、雪解け水による満水除け工事など、三十二、三日かかった。八月彼岸まで洪水被害で臨時普請をした。十月から十一月までは、飲み水が不足して臨時普請をした。これら年間普請は延ベ一〇〇日余になった。戸部村は年間動員人足四〇〇〇人余、普請材料の杭木三六本・藤蔓三七荷が割りあてられた。村では割当量の杭木や藤蔓が調達できず、不足分は金銭で決済した。普請人足・材料一人給分銭四貫七〇〇文・籾一〇俵は、村経費として高割りをしている(『戸部村差出帳』)。
明治四年(一八七一)堰守制が廃止され、近代的堰の維持管理体制が始まり、下堰は御厨村が管理村長となった。昭和二十四年(一九四九)土地改良法が施行され、下堰土地改良区が発足し、民主的に選出された理事長を責任者として管理運営され現在にいたっている。