昭和二十年(一九四五)代ころまでの幹線堰は旧態依然の素掘型水路であった。しかも蛇行屈曲して漏水が多かった。そのうえ、雑草が繁茂して流水を妨げ、田植えどきなどの困惑・被害が多かった。昭和三十三年国の「積雪寒冷単作地帯振興土地改良事業」の適用をうけて水路改修に着工した。その後、国庫補助金・県費補助金・市の農林漁業資金債務負担の助成金なども得て、昭和五十六年幹線用水路二六キロメートル余にわたる三面張コンクリート改修事業を完成させた。いっぽう、団地造成、企業の進出などで都市化のすすむ地区の例にもれず、御厨地区でも堰路は家庭や企業の雑廃水路と化して、堰水は汚染の度合いを深めた。かつては飲料水にも利用された堰水は、田畑の灌漑(かんがい)用水だけに利用されるようになった。そして、蛍や小鮒(こぶな)を追ったこどもたちの姿は堰辺(せきべ)から消えた。