元禄十一年(一六九八)、戸部村には平井町・本町・あら町・なつめ町の四町があった(「川中島八ヵ村高辻等書上」戸部・馬場惣善蔵)。この時代に、北国街道から離れ、宿場でもないところで、戸部村のように四ヵ町名をもった村は珍しい。北国西街道の宿場町として栄えた稲荷山宿でさえ、八日町・五日町・荒町・元町の四ヵ町である。
戸部村は中世のなかごろ、この地に館(やかた)を構えた布施氏の支族富部氏が没落したあと、村上氏の支族戸部氏が入れかわって戸部城を築いた地という(『更級郡埴科郡人名辞書』)。戸部氏の繁栄とともに城下集落が形成され、近郷の村々を商圏とした本町に市も立つようになった。戸部氏が川中島の戦いでこの地を去ったのちも、酒屋・紺屋・鍛冶屋がのれんを競いあい、馬医者・針医者も家を構え、物資の交易地としてにぎわった(享保十五年「村差出帳」戸部林武夫蔵)。江戸の初期ころには毎月九回の定期市(九斎市)も立ち、近郷里方の米穀と山方の薪炭は本町で交易された。これらの交易物は手馬の背で各地に運ばれた。戸部村はこのように城下集落から市場集落へと発展してきたが、北国街道沿いが整備されて隣村の北原や南原に街屋が形成されると、商圏を奪われて村は衰微した。戸部本町の九斎市を廃市にした決定的な要因は、貞享(じょうきょう)四年(一六八七)の大火であった。大火で本町は焼失し、九斎市は断絶した(三「災害」参照)。