江戸時代のはじめころに戸部村には、近郷の生活必需品や穀類・薪炭の交易で毎月九回の市が開かれていた(九斎市)。しかし、貞享(じょうきょう)四年(一六八七)の大火で戸部町組は全焼し、市も中断したまま、四〇年の歳月が過ぎ去った。村人のなかには生活難で持ち馬を手放すものがあいついだ。罹災当時九〇頭飼われていた悍馬は、七頭だけという衰退ぶりであった。そこで、薪・穀市の復活で村を復興することにした。
享保(きょうほう)十二年(一七二七)村役人・村人は連署して穀類・薪の九斎市復活を代官松平九郎左衛門に願いでた。この当時、上田藩主松平忠周(ただちか)は老中職で、川中島一万石は幕府領と交換となっていた。「九斎市復活願書」によると戸部村は、入会薪山(小県郡真田町洗馬山)が遠く、田の手入れが一段落つき次第、男は七、八月いっぱい山小屋に寝泊まりして薪を切っておく。九月の土用前には帰宅して稲刈り、麦蒔(ま)き。これが終わり次第、十月から冬中にかけて切っておいた薪を運んでくる。以前は持ち馬九〇頭で運んでいたが、大火以後は、百姓たちは生活難で馬を売ってしまい、飼われている持ち馬は七頭だけになってしまった。このため薪や秣(まぐさ)は人の背で運ばざるをえない。冬中に半分運びだし、残りは正月から三月ころまで田畑の手入れの暇をみては運びだしている。薪市ができれば耕作に専念でき、収入も期待できるというのが薪市復活の理由であった。また、穀市復活については、年貢金納を命じられたとき、穀物を売って年貢代金にあてようとしても千曲川や犀川が満水で舟留め、穀留めにあい、金納することに困っている。穀物の小売り市が復活できれば、袋や叺(かます)に入れておいた小口荷は穀留めがなく、方々へ有利に販売することができる。市が繁盛することは当村ばかりの利益ではなく、更級郡下の村々の利益にもつながるというのが、その理由であった(戸部林武夫蔵)。松平忠周の老中職辞任の時期と重なって審議未了となったのか、認可の文書は今のところ見あたらない。