一 寺子屋師匠

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 江戸時代、庶民の教育は主に寺子屋でおこなわれ、社会の教育水準を高めた。

 青木以文 安永三年(一七七四)~安政二年(一八五五)の人。戸部。通称は民八といい、字は友章とよんだ。父は農閑期に読み書きを幼童に教えていた。以文は父に学び、刻苦精励、学を好み、父のあとを継いだ。遠近からその門に入るものは前後千有余人に達したという。佐久間象山とも交誼(こうぎ)があり、大久保董斎(とうさい)と並び称された。門人によって法蔵寺境内に頌徳碑が建てられた。

 青木謙斎 文化十三年(一八一六)~明治十八年(一八八五)の人。戸部。以文の長男で幼名を休五郎、のち民八を襲名、号は謙斎である。父の教えをうけ、佐久間象山に師事し、詩を作り書をよくした。学制発布後は小学校教員や学事担当者として尽力した。門人によって父の頌徳碑の横に頌徳碑が建てられた。

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 松本松園 文化七年(一八一〇)~明治十五年の人。戸部。幼名は七之助、通称は資文、君敬と字し、松園と号した。はじめ以文に学び、精励後、近隣の子弟を教えるにいたった。書をよくし、漢詩、和歌等にも通じ、自詠の和歌は数千首を数える。維新後は今井学校などで教えた。子弟によって邸内に頌徳碑が建てられた。

 小林左左衛門 文化十二年(一八一五)~明治四年の人。戸部。幕末より近隣の子弟に読み書きなどを教えた。明治五年常行寺境内に筆塚が建てられた(『更級郡埴科郡人名辞書』)。