心学

636 ~ 636

信州の心学は天明年間(一七八一~八九)各地に心学舎が設立され、全国的にももっともさかんなところとなった。

 信州心学の祖といわれる中村習輔(しゅうすけ)は、郷里(戸倉町)に恭安(きょうあん)舎を建て、門人は一〇〇〇人に近く、川中島・須坂・岩村田・上州にわたって門人がいた。

 安永六年(一七七七)~文化二年(一八〇五)にいたる「恭安舎友記 二番帳」によれば、この二九年間の社友は四二八八人で、入門者は各階層におよんだ。更埴地方の心学社友数七三一人のうち、戸部村はもっとも多い一〇八人を数え、戸部・今井・今里など現川中島町地域がその数において群を抜いていた。盛況の理由のひとつとして、心学恭安舎中惣代の青木以文が中心的存在として活躍したことが考えられる。社会教育の先がけをなした心学は当時の御厨地区の人びとに大きな影響をおよぼした。しかし幕末になるにしたがい衰えていった。