俳諧

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宮本虎杖(こじょう)(寛政五年、一七九三~天保十三年、一八四二)、本名宮本道孟(戸倉町)の追善句集「花野集」には、更埴地方の俳人数が載せられている。もつとも多いのは虎杖の地元戸倉が五〇人、ついで戸部が三七人で虎杖の影響の大きさを示している。虎杖の句碑「花曇塚」が法蔵寺観音堂前にある。更埴地方の俳諧は、はじめ地方流のものであったが、明和(一七六四~七二)のころから、中央俳壇春秋庵系の加舎白雄(かやしらお)などの来遊を機に中央との交流が始まり作品のレベルも向上し、中央におとらぬ作品や俳人も多くあらわれたという。幕末から明治期には虎杖の流れをくむ、戸部の西村心随(本名西村金吾)の追善集「散(ちる)花集」が嘉永四年(一八五一)に刊行された。当時の俳額が法蔵寺と讃楽寺に奉納されている。俳諧が庶民教育に果たした役割は大きい(『長野県俳人名大辞典』、『更埴地方誌』、『戸倉町誌』第二巻)。