地方行政の区画分合

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明治四年(一八七一)新政府は戸籍法を公布し、翌年いくつかの町村をあわせて区をつくった。長野県を七二区画とし、今里村・四ッ屋村・上氷鉋(かみひがの)村は三六区に属した。区に戸長、副戸長が置かれ、二八〇三戸、人口一万三三七三人の更級郡下最大の区であった。同七年大区・小区制が始められ今里村・四ッ屋村は第一六大区第四小区、上氷泊村が第一六大区第五小区となった。大区に正副区長、小区に正副戸長を置いた。長野県に二八、筑摩県に二四の大区がつくられ、明治九年両県が合併後四ッ屋村・今里村が北第一六大区第五小区、上氷鈎村は北第一六大区第六小区に属した。明治十二年大小区は廃止され、県下一〇郡が一六郡となり、更級郡役所は塩崎篠ノ井欣浄寺(ごんじょうじ)に設置された。各町村に戸長役場が置かれて今里村五明竹三郎、四ッ屋村塚田勘右衛門、上氷鉋村村松道三が公選の戸長になった。同十八年には戸長を官選として郡下に一七の連合町村ができた。今里村・小松原村・上氷飽村・四ッ屋村が同一管轄区域になった。