川中島の呼称は時代の情勢によって、広狭に使われている。「承徳(しょうとく)二年(一〇九八)八月犀川洪水あり、爾来(じらい)更級郡の平坦部(へいたんぶ)に二条の支川を生じ、千曲川に入る。これより富部・池・氷鉋の三郷島状をなせりという。この形状は足利氏の末代に至りても変せず川中島の称起こる」とある(『更級郡誌』)。川中島とはもと千曲川・犀川にはさまれた地の称であったといわれる。のちに北信濃の平野部の総称となり、さらに川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)というように北信濃全部の総称として使用された。川中島を一番有名にしたのは、この地で戦われた永禄四年(一五六一)の川中島合戦である。
応永(おうえい)七年(一四〇〇)十一月十五日の市河文書の軍忠状(ぐんちゅうじょう)に「小笠原長秀善光寺より御打ち立てあり河中島横田の御陣に召さる」がある。また、文正(ぶんしょう)元年(一四六六)以前成立の『大塔(おおとう)物語』に「河中島所々は大略村上当知行なり」とある。
大正六年(一九一七)七月笹井村地籍に信越線川中島駅が開業した。駅名は笹井・犀川・川中島のうちから、まだ古戦場として有名な川中島名の駅がなかったことや全国一般にわかりやすいように「川中島」と命名された。
大正十三年笹井・今里両村の合併にあたり、駅名同様「川中島」は村名にも用いられた。