川中島地区の戸口は、大正十三年(一九二四)の今里・笹井両村の合併から太平洋戦争終末ころまでは微増であった。戦後にかけて疎開、復員、引揚者などにより一時増加した戸口はしばらく横ばい状態だった。
昭和三十五年(一九六〇)の国民所得倍増計画にともなう高度経済成長期の同三十八年ころから、人びとが住宅用地をいっそう求めるようになり、県などもその要望にそい市の郊外に住宅用地を造成することになった。同三十七年当地区最初の「長峰団地」は、二〇戸の一戸建ての町営住宅であった。その後県企業局によって弥生町団地・四ッ屋第一団地(現若葉町)・古森沢団地や今里団地などが造成され住宅がつくられて戸口は急増した。平成四年(一九九二)にバブルが崩壊し、地価は一八年ぶりに下落、当地区は旧長野市街の郊外地に加え、人びとの生活向上志向とともに宅地化が一段とすすみ戸口は年々増加している。