犀川扇状地、いわゆる川中島平は古代から犀川の乱流による堆積(たいせき)作用によって形成された。その堆積量は莫大(ばくだい)である。さらに弘化(こうか)四年(一八四七)の大洪水は川中島平に多量の土砂をもたらした。堆積量が莫大のためか、発掘された既知の遺跡は千曲川左岸の堆積土の薄い扇端の一部分に限られている。田中沖Ⅰ、Ⅱ・南宮(なんぐう)・田牧居帰(たまきいがえり)・棗川原(なつめがわら)・花立(はなたて)各遺跡からは、弥生、古墳、奈良、平安の各時代にわたる多数の集落住居跡や甕(かめ)、土師器(はじき)、坏(つき)、椀(わん)などが発掘された。「特に田中沖遺跡Ⅱ地点はおおくの遺構が重複関係にあり、その密集度は千曲川自然堤防上の遺跡群に匹敵するほどである」(『田中沖遺跡Ⅱ』報告書)。現在川中島平においては右の五遺跡などの発掘だけである。堆積土の厚い川中島地区においては、今のところ五遺跡の出土品などから生活の痕跡(こんせき)を推量するよりほかに方法がない。当地の郷(ごう)や式内社(しきないしゃ)数の多いことなどから、かなりの人びとが住み、とくに古墳時代ころ以降は多く生活していたであろうことがうかがえる。