二 郷と荘園

654 ~ 655

 『和名抄(わみょうしょう)』によると、信濃六七郷中、九郷ともっとも多いのは更級郡である。九郷中、今里村は斗売(とめ)郷、四ッ屋村は水内郡芋井郷(のち篠井荘)、上氷鉋村は氷鉋(ひかな)郷(のち篠井荘)に属した(『町村誌』)。郷は律令国家の地方行政組織の末端単位の村落である。律令制ははじめ五〇戸を単位とした「里(り)」を編成した。里制は霊亀(れいき)元年(七一五)式(しき)(施行細則)により郷に改名しその下に里を置くことにしたが、天平(てんぴょう)十二年(七四〇)に「里」を廃止、以後郷制とした。郷は五〇戸編成ということから、その郷域がはっきりしていないが、自然村落のいくつかによって編成したといわれる。『和名抄』成立の承平(しょうへい)年間(九三一~九三八)、川中島地区には斗売郷・芋井郷・氷鉋郷三郷が所在した。

 延喜式内社は、信濃国四八座中更級郡が一番多い一一座、水内郡の九座を合わせると県内の四一パーセントを占める。なかでも式内社三社のある氷鉋郷(犀川(さいがわ)寄りに氷鉋斗売神社)、斗売郷(扇央に布制(ふせ)神社)、ならびに池郷(千曲川寄りに頤気(いき)神社)の三郷を合わせた郷域は、川中島平の大部分にまたがる。このことによって当地域(地区)が奈良時代から平安時代初期ころにかけて栄えていたことをうかがうことができる。

 篠井(笹井)荘については栗岩英治が「笹井荘は捧(ささげ)荘の転訛(てんか)したもの」であろうと『信濃荘園の研究』で論証し、捧荘を捧勅旨(ちょくし)(皇室荘園)ではないかとしている。川中島平の犀川周辺旧村は笹井荘に属したと伝えている(『町村誌』)が、確かなことは不明である。