当地区には小田切氏の館跡が今里内後(うちご)と於下(おしも)の二ヵ所にある。内後のほうは上屋敷・御殿跡、於下は下屋敷跡と通称している。
上屋敷跡(御殿跡)は南北六五メートル余、東西六〇メートル余の方形で、北・西・東側に堀の名残の水路がみられる。御殿跡と外郭による回字形の館であったろうといわれる。御殿跡の北半分ほどは畑地で、屋敷内に住む内村繁美宅の一隅には小田切駿河守(するがのかみ)幸長を祭る小田切神社がある。
いっぽう下屋敷跡は於下集落のほぼ中央にある。東西約五〇メートル余、南北七〇メートル余の屋敷で、かつては屋敷跡の北辺から東辺にかけて幅五メートルほどの堀がめぐり、堀ぎわには欅(けやき)の大木が数本あった。堀はこどもたちの魚釣りやスケート場として昭和十一年(一九三六)ころまで格好の遊び場だったという。平成十年(一九九八)秋に敷地内北東部の畑地は宅地造成され、現在堀にそそいだ水路跡だけわずかにその名残をとどめている。
小田切氏は小県郡、佐久郡にさかえた滋野氏の一族海野氏の出といわれ、応永七年(一四〇〇)大塔(おおとう)合戦に落合、窪寺(くぼでら)氏などとともに活躍している。寛正(かんしょう)七年(文正(ぶんしょう)元年、一四六六)ころ小田切高遠は隣郷の窪寺氏の領地をあわせ小市(安茂里)の北中御堂(きたなかみどう)に本拠を置いて吉窪(よしくぼ)城(小田切)を要害として村上氏に属していた。天文(てんぶん)年間(一五三二~五五)には犀川を越え、更級郡の北部に進出し、今里の内後、於下に館を設けた。弘治(こうじ)三年(一五五七)二月武田方は小田切幸長、落合備中守(びっちゅうのかみ)等が守る葛山(かつらやま)城を攻め幸長らを討ちとった。その後小田切氏にゆかりのものが内後の円光寺境内へ小田切幸長夫妻の墓をたてた。また小田切氏子孫の幸政は正保(しょうほう)元年(一六四四)先祖の業績を「遺処覚」にまとめ、氏の菩提寺であった円光寺に納めている。