四ッ屋村は江戸時代をとおして松代領、今里村は上田領と幕府領(天領)の分け郷、上氷飽村は旗本知行所と、川中島地区の統治は入りくんでいた。
元和(げんな)八年(一六二二)仙石忠政が小諸から上田に転じ、小県郡で八五ヵ村、川中島平で八ヵ村(一万石)を領したため、今里村と上氷飽村は上田藩の飛び領地となった。宝永三年(一七〇六)仙石氏と入れかわりに松平氏が上田へ入封(にゅうほう)するにさいし、今里村の一部(八八石余)が幕府領となった。ただし享保(きょうほう)二年(一七一七)藩主忠周(ただちか)が京都所司代、ついで老中になったため、同十五年まで今里村と上氷飽村は幕府領となった。上氷飽村は享保十五年から上田藩分地の塩崎旗本知行所(五〇〇〇石)となって明治維新まで七代を数え、今里村は再度上田領に復し幕末にいたっている。