今里村

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享保十五年(一七三〇)四月上田藩へ提出した「今里村明細帳」によると、村高一〇五六石八斗余、うち四石五斗六升はむかしから永引(えいびき)(永久免租地)、五斗六升御蔵敷永引、新たに開墾した高が一〇石八斗余である。家数一〇六軒のうち貢租負担者である本百姓が七四、水呑百姓が三二(約三〇パーセント)。人口は男二二五、女二三四、計四六三人(『更埴地方誌』③計数不一致)である。享保期(一七一六~三六)今里村の枝郷には阿弥陀堂(一〇軒)、村下(ママ)(一二軒)、古森沢(二二軒)があった。年貢はすべてが金納で、十月から翌六月までに上納した。公用人足は高割でおこない、下命普請には扶持米があった。庄屋・組頭は夫役(ぶやく)が免除された。村政は庄屋・組頭・長百姓の村方三役があたり、村民は領主が出す種々の法度(はっと)(掟)と「村定め」によって制約をうけた。つぎは文政元年(一八一八)十二月の今里村野荒らしの村極めである。「当組でだんだん野荒らしがあるから組中で相談のうえ、村法をきめた。もし野荒らしのものがいたなら、右組法のとおり少しも背かないようにする。ここに組中が書き付けに連印して差しだす。科料(とがりょう)として、①野荒らしものは五ヵ年これまでの品を差しだすこと。金一両差しだすこと。②見過ごしたものは金一両差しだすこと。③右金二両は見届けたものがとるべきものとする」(「今里坂口家文書」)。当地区に限らず野荒らしや盗みは、不作・飢饉(ききん)などのときに多かった。

 小市(安茂里)の犀沢山(さいざわやま)はむかしから四ッ屋村・小市村・今里村三ヵ村の入会地で、まぐさなどを刈りとった。村では犀沢山から芝草刈りをしただけでは田畑の肥料が不足したため、毎年村中で芝草と油粕代分として籾(もみ)七〇俵余と金一五両ほどを支出している。また、草山郷内山は今井村・小市村・阿弥陀堂が以前から入会い芝草刈りをしていた。阿弥陀堂からは今井村へ年々山手籾として二斗五升ずつを支払った。田方仕付けのときは田かき馬を西山のほうから毎年二十四、五匹雇い入れ、賃籾四〇俵ほど(馬一匹につき八斗ずつ)を払った。畑作物は大麦・小麦、木綿、そば、大豆、菜、大根を仕付け、大部分は村内消費であった。

 毎日の飲み水は犀川から引水して村中をとおし、井戸水は用いなかった。薪と食塩は村中でそれぞれ三〇両ほどかかった。村内には紺屋が一軒あった。