上氷鉋村

666 ~ 667

宝永三年(一七〇六)の人口は男二〇九、女一七四、出家二の計三八五人。家数一〇三軒のうち一〇〇軒は本百姓、三軒は水呑百姓で、屋敷持ちは七二軒(七〇パーセント)、そのうちの六九軒は藪(やぶ)のうちも年貢を納め、九軒の河原屋敷のものは免除された。村高は九〇〇石余で田一町九反余(五〇〇石)、畑一町七反余(三〇〇石)宅地その他(一〇〇石ほど)だった。開墾地は四一石二斗余、年によっては水害をうけた。

 江戸時代の土地は田畑とも玄米の収穫高であらわされた。年貢率は収穫の豊凶に関係なく一定の年貢を取る「定免法」と年ごとに作柄を調べ年貢率をきめる「検見(けみ)法」があった。上氷鉋村は定免法で年貢率は時代によりわずかのちがいはあるが明和五年(一七六八)から六ッ七分(六八パーセント)余となって明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)までつづいた。役大豆は年々八俵(五斗入)を出し、黒大豆、青大豆は地頭入用しだい年貢のかわりとして認められていた。

 畑には大麦・小麦、大豆、木綿、胡麻(ごま)、大角豆(ささげ)などを作り、たばこを少々栽培し、蚕を少し飼った。草山入会いは松代領内の関屋口(松代町)、東条口(同)、保科口(若穂)で山札一枚分として籾一斗ずつを入用時に出し採取している。農閑稼ぎは男が薪取りをし、ねこ・筵(むしろ)・縄・わらじなどを作り、女は木綿布を織り着物などを仕立てた。当時、村には馬医一、馬喰(ばくろう)一、鍛冶(かじ)一人がいた(宝永三年「上氷鉋村明細帳」)。