西部を本組といい、東部を中島組といった。松代藩は幕末まで地方知行制(じかたちぎょうせい)を実施したが、四ッ屋村には藩の直轄地(蔵入地)と藩士(地頭)知行地とがあり、寛文六年(一六六六)の村検地帳では総石高が八七八石余、うち御蔵地分五七二石余(六五・一パーセント)知行地分三〇六石余(三四・九パーセント)であった。松代藩には知行主が二六〇人ほどいた。地頭の知行地はふつう数ヵ村に散らばっている。寛文ころ四ッ屋村には一二人の知行主がいた。明和五年(一七六八)望月治郎左衛門は藩財政建て直しの功で二〇〇石加増され、そのうち五五石は四ッ屋村でうけた。その場所は中島稲荷社付近で今も「望月河原」とよばれている。
寛政九年(一七九七)の四ッ屋村には、五人組が六組あり、その構成員と住僧などを合わせた一七三人が農業を主としたくらしをしていた。幕末慶応三年(一八六七)の家数は八七軒、人口は四二〇人で、そのうち近隣村への一年季奉公(出替り奉公人)は五人、江戸への奉公は三人を数える。在地職人一三人は、唐弓打(とうゆみうち)(綿打ち)、黒鍬(くろくわ)(土木普請、荷物運搬などの人夫役)、酒造人、揚酒(酒の小売)(二)、材木師(二)、桶工(おけく)、刺物師(家具細工)、左官、石工(いしく)(二)、畳刺稼ぎで、各職種とも冥加金などを払って営業している。