巡見使の通行

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巡見使は江戸時代将軍の代替りごとに各地に派遣され、時の政情や民情を視察した。享保年間(一七一六~三六)までその効果が大きかったがしだいに形式化していった。つぎは天保九年(一八三八、一二代家慶将軍職就任)に巡見使が中氷鉋村-上氷鉋村-今井村を廻村した。そのさいの村役の対応と達しである。塩崎陣屋の指示により、巡見三ヵ村村役人は巡見使の通り道を事前に点検し橋のかけ替えや枝切り、柵(さく)や塀の修復、高札の書きかえなどをおこなっている。三ヵ村あて一一ヵ条の達しはつぎのとおりである。

 ①御巡見が来る十五、六日ころこの辺を通行されるから、村内および村掃除など諸事先だって見分のとおり取りはからうこと。②火元はとくに念をいれ、御通行前日より夜番、火のまわりなど増員しきびしくすること。③食事など夜のうちにこしらえておき、御通行の節、煙を立てないようにすること。④御通行の節、のぞきみを決してしてはいけない。⑤家々にて高ばなし高笑いを決してしてはならない。⑥茶屋や店などへぞうり、わらじを高くかけておかない。そのほか見苦しいものは出しておかないこと。⑦往来のものでも高く腰かけさせてはならない。⑧戸口にすだれなどをかけおいてはならない。⑨障子や窓の見苦しいところは張りかえさせること。⑩こどもはいっさい通り道へ出してはならない。右のほかすべて無礼のないように言いつけること。⑪今井村は御休み宿につき、とくに諸事手ぬきにならないようにできるだけ言いつけること。

 巡見当日は駕籠(かご)、具足、長持、両掛などの村持人足一八入と賃人足三人が動員された。休泊村では巡見使各人に一軒の宿を用立て、お定めの木銭と所相場の米代金は巡見使がわから支払われている(「上氷鉋共有文書」)。