犀沢山は昔から今里村・四ッ屋村・小市村の入会地であった。この争論は、元禄五年(一六九二)四月三日今里村十王堂前の橋が破損したので、修理のための松木を切るため人足を小市村明神林へ入れたところ、小市村が人数をくりだして、それを阻止し、まさかり五梃(ちょう)を取りあげてしまったことに始まる。その後、村役人間で交渉したが解決しないため、同年九月今里村から松代藩へ出訴した。しかし同六年二月藩から「小市村のいうとおりで今里村の誤りである」と申し渡された。今里村はそれに承服せず同年三月幕府へ提訴した。今里村の言い分は、要約すると①入会山である犀沢山で木を切ろうとしたら、小市村のものに妨害された。②小市村のものは入会山に新たに畑を切り開いている。草刈り場が狭くなる。③今里村は犀沢山で薪・草をとって田畑を作ってきた。去年、今年と二年小市村に邪魔されて今里村一一〇〇石余の百姓が田畑を作ることができないで難儀している。
これにたいし小市村は、①小市村のなかに、小市の内山と今里村・四ッ屋村・小市村三ヵ村入会の犀沢山がある。むかしから入会山のほかは他領のものを入れていないのに、今里村のものが明神林(内山)へ入って、松木を切るというので、山道具を押さえ一本も切らせなかった。②小市内山は前々から山見安太夫を置いて、松木は切らせていない。内山の年貢は二俵一斗二升で、毎年松代役所へ納めている。③小市村はむかし、三二二石余であったがだんだん川欠けして一二〇石しかない。小市村のものは、わずかな田地ゆえに内山、入会山へ少しずつ新しく畑を切り開いて命をつなぐよりほかに方法がないと返答した。
元禄七年二月、双方の主張をきいた幕府はつぎの裁決をくだした。
①小市村のものは、今までの畑はそのままでよいが、今後はいっさい新しく畑を切り開いてはいけない。
②今里村のものは、今後いっさい明神林で松木を切ってはいけない。
この裁決は「犀沢より小鍋村境、東窪寺村山境を限り、右三ヵ村の者入会山たるべし」と入会山の範囲をはっきりさせたものであった。