川中島四堰

671 ~ 672

川中島地区を流れる主な用水路は、上中堰(せぎ)・下堰・鯨沢(けいざわ)堰・小山堰である。これらはいずれも犀口から取水していた。昭和三十三年(一九五八)から上中堰が右岸、ほかは左岸から取水し川中島平を潤したあと千曲川にそそいでいる。

 中世のころ、川中島平の川筋は、高瀬川とよばれた犀川から分流して南東に向かって流れる御幣(おんべ)瀬(岡田堰の前身、のちの上堰)、原瀬(古犀川ともいう。今井堰の前身、のちの中堰)、中瀬(戸部堰、のちの下堰)、中瀬支流の四瀬(小島川ともいう、鯨沢堰の前身)の自然流であった(『上中堰沿革史』)。

 慶長期(一五九六~一六一五)それらの自然流を用水堰として整備したのは、松代城代だった花井吉成・義雄父子といわれる。そのあと二五〇年ほどは大異変もなく犀川から揚水してきた。けれども弘化四年三月二十四日(一八四七、新暦の五月八日)の大地震後には西方地盤の隆起にともなって、河床の浸食が急激に進行して、揚水が困難になったため、各堰とも上流に取水口を移さざるをえなくなった。明治元年(一八六八)四、五月の大洪水でも三堰の取水施設などが壊滅した。そのうえ、犀川の河床が二・四メートルほども低下したため、上・中堰の取水は困難になった。同年まず上堰が操穴堰(くりあなせぎ)と合口(ごうくち)をつくり、同四年には中堰が操穴堰を拡張し、合口取水工事を完成させ、上堰・中堰別水系であったのを同一水系として上中堰となった。現在その操穴堰の遺構が一部残っている。そののちも、犀川の洪水や河床沈下がつづき上流への取水施設の築造、堰の保全など農民の並みなみならぬ努力があった。明治三十八年には高松隧道(すいどう)が完成した。

 昭和二十四年(一九四九)農業の近代化を目ざした「土地改良法」が施行され、それ以降、上中堰は「上中堰土地改良区」、下堰は「下堰土地改良区」、鯨沢・小山両堰は「川中島平土地改良区」として、こんにち用水の維持管理にあたっている。なお、昭和二十八年東京電力による小田切ダムの完成によって、川中島地域の人びとは、ようやく取水の苦しみから解放された。