明治元年の犀川洪水の被害まで、下堰組合に属していた下待居(しもまちい)七ヵ村(上・下小島田村、大塚西・乗組、下氷鉋村、中氷鉋村、上氷鉋村)は、河床沈下、取水困難を機に分ヶ口引水(新堰掘り割り)をつくり、下堰組合から独立して同年末からは鯨沢堰と称することになった(明治二年一時脱会していた上氷鉋村は鯨沢堰に復帰した)。堰名の鯨沢は、伝承によれば直接水を迎え入れる意味の迎沢から鯨沢堰としたという。鯨は水を吹くのでその縁起からとったともいわれている。
鯨沢堰の独立
明治元年の犀川洪水の被害まで、下堰組合に属していた下待居(しもまちい)七ヵ村(上・下小島田村、大塚西・乗組、下氷鉋村、中氷鉋村、上氷鉋村)は、河床沈下、取水困難を機に分ヶ口引水(新堰掘り割り)をつくり、下堰組合から独立して同年末からは鯨沢堰と称することになった(明治二年一時脱会していた上氷鉋村は鯨沢堰に復帰した)。堰名の鯨沢は、伝承によれば直接水を迎え入れる意味の迎沢から鯨沢堰としたという。鯨は水を吹くのでその縁起からとったともいわれている。